この2週間ほど
深夜2時から
朝6時までの間
“起きた時間に 坐禅する”
自己調律を
繰り返すうち
いかに観念を
鵜呑みにしているのかに
気づきます
例えば
タイトル
“本来のワタシ”
or
“本来の自分”
本来って
なんでしょう?
そして、
本来って
そもそもあるんかい?
(↑なぜかある前提)
追いうちをかけるよーですが
ワタシって何?
自分って誰?
・・・と
観念を正面から
見つめなおすと
本来のワタシって
いったい
誰によって
「確かにYOU本来だね!」と
お墨付きをもらうことが
できるでしょう?
そうしないと
「本来認定」
されませんよね?^^>>
自分で思えば
そうだと言うなら
自分は本来なのか?
となりますね 笑
はい、
観念の言語ゲームに
際限はないのです
そこに
こだわっても
しょーがない。
敢えて問うなら
本来のあなたは
どこにいる?
答えが出ている方は
お返事楽しみにしています。
もし答えを
創り出すことに
関心がおありなら、
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お待ちしています^^
自分と自己と自身の
違いをはじめ
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